無用の数学

数学を必要としない生徒や、テストで1桁の点を取るようなの生徒にどのように数学を教えるかについて。

成績下位者の指導について

 先に断っておくと、「下位層」や「下位者」という表現はあまり好きではない。それは後にも出てくるが、人格と学習成果の混同という、多くの生徒や我々が陥りがちな過ちを生むからである。我々が成績を数値でつけているのは第一に社会からの要請であり、本来学習に不要なものである。また、これは断言できるが、成績上位者は必ずしも内容を理解している訳ではないし、人格的に優れている訳でもない。また、その教科に関心、意欲がある証拠にもならない。あくまでゲームのハイスコア記録保持者であるだけだ。

 

 成績下位者の原因は多岐にわたる。

 生活上・精神上の悩み、不調などから授業に集中できないなど、本人の心の変化によって改善が期待できるものと、手順が覚えられない、不注意が多い、目や耳からの情報が伝わりにくい、書くことが苦手など、いわゆるLDのような脳の機能からくるものがある。

 

 後者については(私もある意味該当者で)劇的な改善は望めない。しかし現実的には、数学Ⅰなら数学Ⅰの技能や考え方を修得したかどうかは、大部分がテストの点数によって評価される。もし、脳内の処理上で正解していたとしても、それが正しく出力されなければ、技能や考え方を習得したとは認められない。公に認められた単位取得であるから、実務上、他者とのやり取りの上で問題が起こる状態を修得と言えないのは致し方ないことである。

 つまり後者の成績下位者には、脳の機能の特性を超えて、どうにかして正しい出力を得ることが求められるのである。(逆に、良い悪いは別として、テストで正しい出力ができさえすれば、システム上、悪い成績になりにくい。)

 

 さて、成績下位者と学習を進めるには、まず障壁をクリアしなければならない。彼らの多くは、今まで勉強でいい思いをしたことがない。教員に呼び出され、親から責められ、あるいは諦められ、友人に笑われ、自己肯定感は大抵地に落ちている。彼らは○(マル)に飢えている。衣食足りてなんとやらで、数学の考え方を身につけさせるには、まず正解して褒められる経験をさせなければならない。可能ならば大勢の前で褒めたい。

 

 次に、正攻法だけでは結果は得られないことを肝に銘じておかなければならない。

 成績中上位者の場合、授業を受けて最終的にどのように正しい出力を得ているのか。まず教員の発問に答えたり説明を聞いたりすることで、既習事項との関連づけを行う。小学校で訓練した「にたところ」、「ちがうところ」への着目である。そして、例題の解き方を見て、それを真似て練習問題を解き、目と頭と手の連携を強める。成績上位者の中には、この連携作りが念頭操作だけでできるものもいる。さらに、宿題に取り組むことで操作手順および知識の定着を図る。

  成績下位者はこのどこかに問題を抱える。例えば「似たところ」が見つけられない。実際、5の倍数の1の位が5か0であることを見つけるのに数十分を要する生徒がいる。「違うところ」が見つけられない。実際、2次関数の式を見て1次関数のグラフをかき出す生徒がいる。そして、既習事項を覚えていない。実際、自分で言語化し、自らメモしたはずのことを数秒後に忘れる生徒がいる。「真似」ができない生徒もいる。処理の途中でノイズが入る生徒もいる。

  目的は、彼らを正しい出力へ誘導することであり、それには、出力までに処理する情報をなるべく少なくすること、処理の手順を獲得する方法を絞らない(幼稚だとか、厳密でないという理由で方法を却下しない)ことが重要である。そのうえで、なるべく数学の考え方が取り入れられるようにしたい。

 

 これから書いてゆくようなある種の訓練による正解は邪道、数学ならば理屈を重視すべきという批判もあるだろう。事実、私自身も様々な困難を持つ生徒に出会うまではそのような考えだった。しかしこれは大きな矛盾である。我々が相手にするのは、論理的な方法に適応しなかった脳である。論理を適切に受け入れない脳に対し論理が適切であることが前提の話をしてどうするのだ。理屈を聞いて真似しただけで関連付けが適切に行われるならば、そもそも成績下位になりはしない。もっと動物的な層での回路の構築が必要なのだ。